「新しいものは正しいのだ」という時代が終わる?

私が小学生、中学生(昭和20年代、30年代前半)の頃までは、どの家庭にもTVの受信機やオーデイオセットがあったわけではありません。 家の中で楽しむことのできるエンタテイメントは何もなかったのです。 戦災で全てが焼けてしまったからとか、国や人々が貧しかったからというわけではありません。 まだ技術がアイディアの段階だったり研究者段階だったので、TV受信機が家庭に入るには少し時間がかかりました。 ですから音楽を楽しむには日比谷公会堂に行かなければならなかったし、野球を見るには神宮球場とか後楽園や上井草球場に行かねばならなかったし、芝居を見るには三越劇場に行かねばなりませんでした。 つまり楽しいことは 生(ライブ) でしたから大人は体験できても 子供にはチャンスがなかったのです。  そんなわけで子供達は外で走り回って遊ぶことしか他にやることがなかったのです。(笑)
 音楽のことを知っていたり、野球のことを知っていたり、芝居のことを知っているのは大人だけでしたから 子供は はやく大人になりたいと思っていました。 
子供の世界は 学校の友達と近所の子供とが遊びまわる 自分の家を中心とした 1km四方の範囲に限られました。(笑) 時々近所のお兄さんに連れられて もう少し先まで遠出をするのは大冒険で、気分は「遠征」だったのです。 夏休みや冬休みに 親に連れられて電車や汽車に乗ったりすれば 見たことのない景色を見ようと、座席をよじ登って、窓に顔をくっつけて はじめて見る景色を 決して見落とすまいとズーッと見続けたものです。
電車で小さな子供と一緒になることがありますが 近頃の子供達は外の景色に興味を示しません。 毎日TVの映像を見ているとか、親と車で外出する機会も多いのでしょう、私の子供の頃とはえらく違います。
かつては 大人にならなければ得ることのできなかった学問とか知識とか経験といったものを 小さな子供の時期に多様なメディアから断片的な情報として沢山触れてしまっています。子供達は 知識の断片で世界を全てわかっているつもりになります。 「文化」は過去からの連続したものの集積です。 この連続しているものを 一つ一つ学び経験していかないと身に付きません。 私は大人になりきらない高校生の時に TV番組や新しいメディアを経験してしまい、一番大事な時期に文化の連続性を疑いもせずに断ち切ってしまった最初の世代かもしれません。
「新しいものは正しいのだ。」という価値観を私達以降の若い世代がもっているのは、多様なメデイアや新しい技術が次々に開発されて、「役に立つ知識」とか「技術的な知識」というものが最も重要であると信じ込み、それらを順序関係なしに取り込んでしまったからです。
20世紀の前半に新しい技術が開発され20世紀後半にそれが進化し、人々がひろく利用するようになりましたが、21世紀に入ってみると、画期的な技術革新は そろそろ終わってしまったような気がします。
私の関わっている音楽の世界も、ゲームの世界も これから先、大きな技術革新はしばらくはなさそうです。
技術革新が停滞してしまえば「新しいものは正しいのだ」という価値観を持ち続けられません。
・・・・・となると「これからはどんな時代がくるのだろうか?」と考え込んでいます。(笑)