温故知新 3

「年表」の話しの「江戸編」です。(笑)
「年表」を見ていて、気付いたことがあると 前回書きました。
1582年(天正10年)に「本能寺の変」があって 織田信長が自殺して、豊臣秀吉に政権が交代します。
1590年(天正18年)に 小田原征伐後は 秀吉は全国統一を成し遂げて 人事異動をし、徳川家康
江戸に転勤させます。
でも 秀吉が1598年に死んで、1600年(慶長5年)に「関が原の戦い」で政権は徳川家康に移りました。
徳川政権が磐石となるのは 1615年(元和1年)の「大阪夏の陣」で秀頼、淀君が自殺して、豊臣家が滅びてからですが、「関が原の戦い」のあと 徳川家康は秀吉に命じられた 転勤先の当時の中心地の京都周辺ではなく 「地方」だった江戸を徳川政権の「本店」所在地にしました。
で、私が「年表」を見て、面白いなと思ったのは、初代家康 二代秀忠 三代家光 四代家綱までの80年間(1600年〜1680年)は 空前の公共事業の時代だったことがわかるのです。  
先ず本店所在地の江戸は そもそも何もなかったのですから、本店(江戸城)の建築がはじまります。(このあたりの事情は 現在日曜日の日経の最終ページ文化欄に野口武彦氏が毎週「江戸の風格」というコラムに詳しく書いています。)
家康を祀る日光東照宮を造るし、徳川家の為の上野寛永寺を造るし、町人の為に 海辺や 入り江や 小さな川を 次々に埋め立てて 下町を造るし、東海道をはじめとし、高速道路のような五街道を造るし、京都二条城 名古屋城 その他にも直営の地方支店(江戸本店からみて)を造ったし、戦国時代に荒れてしまったり、焼けてしまった各地の寺が続々と再建されたさまは、まるで1945年の敗戦後に焼け跡になった日本各地の復興と、バブル時期の公共事業の 建築・土木ブームとおなじような気がします。
それでそんな公共事業に 区切りがついて、世の中が落ち着いたのか、それとも財政が厳しくなったので、公共事業を縮小しなければならなくなったのかは、専門家でない私には わからないのですが、とにかく 1680年ごろから 公共事業が少なくなっています。
そして、その後に「改革」とか「倹約」という項目が「年表」に出現します。
これって「行政改革」とか「財政再建』といわれつずけている 今の私達の置かれている状況とまるで 同じだと思いませんか?(笑)