温故知新 4

  • 「年表」の話しの「江戸公共事業編」です。

江戸徳川政権の初期は多くの「公共事業」があって、城や寺や大名江戸屋敷などが建てられました。 それぞれが「権力」「権威」を誇るのですから、大型建造物です。 大型建造物を建てれば当然それなりの内装をしなければなりませんから 内装の専門家の需要も沢山ありました。 
日本の建造物の内装といえば、襖(ふすま)絵、屏風絵、欄間細工といったところです。狩野探幽俵屋宗達といった日本画家や左甚五郎といった彫工が有名で、こういったジャンルが大いに栄えました。
1600年(慶長5年)の「関が原の戦い」から 家康、秀忠、家光、家綱と4代続いた江戸時代初期 80年間は 戦乱の後始末と 新しいものを猛烈な勢いで創り上げました。
1680年からは五代目綱吉の時代に入ります。 綱吉は良く知られている「生類憐れみの令」で有名な「犬公方」といわれている将軍です。
「年表」を良くみると この「生類憐れみの令」が発布された1687年の前年の1686年に『「旗本奴」 「町奴」 逼息(ひっそく)す。』と表記されています。
「旗本奴(はたもとやっこ)」というのは 徳川家直属の家来である旗本のなかの不平分子が徒党を組んで乱暴狼藉(ろうぜき)を働く無頼集団のことです。
「町奴(まちやっこ)」というのは 町人で組織されたヤクザ集団のことで、その親分が「幡随院長兵衛」です。「幡随院長兵衛」は子分3,000人を抱えていたというのですから、大親分でした。 「旗本奴」と「町奴」が対立し、江戸市民は大迷惑だったらしいのです。
戦国時代が終息したので、武士は失業するわけですから、不平不満のエネルギーは高まって「旗本奴」となって暴れ回り、それに対抗して「公共事業」が少なくなって失業した町人も 不平不満がたまったので「町奴」を組織したのではないでしょうか。
でも 世の流れは緊縮予算をしなければならなくなり 平和と安定に向かっていたわけですから、「旗本奴」と「町人奴」に対して取り締まりが厳しくなったのでしょう。
それが「逼息」(ひっそく)という表記になります。
で その次の年に「生類憐れみの令」発布となります。 つまり「生類憐れみの令」は「もう刀を振り回す時代は終わった。」という宣言だと思うのです。
「生類憐れみの令」は「生き物を殺した者を厳罰に処する」ということで「人間よりも犬猫を大事にするというバカな法律」ということで悪名が高いのですが、本当は「刀を振り回して犬猫を切り捨てたりしてはいけない。ましてや人を切ったりしてはならない。」というしごくもっともな法律だったのではないのかな?と私は年表を見ながら思うのです。
そうでなければ、1688年からはじまる、平和な元禄時代に入れないじゃないですか。(笑)
というわけで、「生類憐れみの令」は「日本国憲法第9条に肩をならべる 平和を希求する立派な法律だった。」のだから この法律を作った綱吉はとても偉かった、というのが私の考えです。(笑)