着うたはCDシングルの後継 その3

2回にわたって「着うた」がCDシングルの代わりになっていることを書きました。シングルがユーザー(リスナー)から「NO!」をつきつけられていると、私は勝手に判断しています。(くりかえしますが、世の中の全ての人が、そう言っているわけではありません。念の為)

「着うた」はJ−POPやラップ系の曲にはむいていると思いますが、ロック系、シンガー・ソング・ライター系の曲にはあんまりむいてはいない。と書きました。「着うた」は、曲を30秒前後のパーツに切り取って携帯サイトにアップします。30秒のパーツを切り取ることに普通ミュージシャンはかかわっていません。ミュージシャンは完成された一曲全部には大きな関心があるのですが、その楽曲の二次利用である「着うた」なんかにかかわったりしないもんです。

しかし「着うた」がCDシングルの代わりになちゃっているんだったら、ミュージシャンは本気で「着うた」にかかわらなければならないと思うのです。ロック系、シンガー・ソング・ライター系のミュージシャンは「着うた」の機能を使いきるんだ、と考えて欲しいのです。実は「着うた」は47秒前後迄は良音質で収録可能です。ですから「47秒という着うた」の「尺」のなかで、どれだけ「自分の音楽」を表現できるかをトライしてみて欲しいのです。

曲を作る時、ロック系、シンガー・ソング・ライター系のアーティストは普通は長さの制約がありませんから、色々考えて比較的長い曲が出来上がります。しかし、「着うた」という「尺」を使うということを前提とすると制作の自由は大きく損なわれます。まあ普通は「そんなのイヤだよ!僕は自由に作りたいんだ!」といいますよね。でもね、考え直してください!「47秒の完成された曲」を食べたくて、池の中で待っている魚が沢山いるんです。(笑)

自由であることは、色々工夫してしまうということになります。そして何故か「長い曲」「むずかしい曲」が出来上がってしまいます。工夫するということは、人間の持っている最高の美点の一つなのですが、工夫を重ねると本当の良さが消えてしまうという事実もあります。このことを私は「着うたはCDシングルの後継 その1」で詳しく書きましたから、ぜひもう一度読んでください。

本来、人間はいろんな活動を自由にやりたいと願うのが普通ですが、わざわざ制約を作って、その中で、最高の技術なり美を追求するという知的な楽しみ方もあることを知っています。手を使用してはいけないというルールを作って、足だけでゲームをするというサッカーが世界中で大人気なのは、その最たるものです。

日本の短歌や俳句だって同じようなものですよね。「五・七・五・七・七」とか「五・七・五」のなかに「恋の情熱」や「人生のはかなさ」などというあらゆる事象を表現しきってしまう、という技(ワザ)を昔から日本人は開発してきました。「47秒という尺」の制約は、クリエーターにとって挑戦のしがいのある制約だと思うのですが。(笑)
(つづく)