インターネットの可能性の本質

今日も梅田望夫さんの 『ウェブ進化論』からの引用からはじめます。

『「インターネットの真の意味は、不特定多数無限大の人々とのつながりを持つためのコストがほぼゼロになったということである」
子供の頃に 「1億人の人から1円ずつもらえたら1億円になるなあ」
なんて夢を思い描いたことのある人は多いのではないだろうか。

中略

放っておけば失われていってしまうはずの価値、つまりわずかな金や
わずかな時間の断片といった無に近いものを、
無限大に限りなく近い対象から、
ゼロに限りなく近いコストで集積できたら何が起こるのか?
ここにインターネットの可能性の本質がある。』

ここの部分は05年7月4日付けで 〈正論〉
というコラムでも取り上げられていて、この部分に深く
納得したことを思い出します。
・・・で今日はここから書き始めようとしたところ、


またまた見逃せない記事を読んでしまいました。

朝日新聞06年2月14日 (夕刊) 『思想の言葉で読む21世紀論』


『「象徴的貧困」 とは過剰な情報やイメージを消化しきれない人間が、
貧しい判断力や想像力しか手にできなくなった状態をさす。』


『情報社会の中で増え続ける大量の情報に追いつくためには、
情報の選択や判断までを自分以外の誰かの手にゆだねぜるを
えなくなっている』


『メディアの多様化は進んでいるのに、どのメディアも
同じ数量化された商業主義的枠組みで情報を扱っているから
人々の意識は同じ方向に向かってしまう』


『象徴論敵貧困からの出口は個人が情報を発信できる
インターネットに期待したい。』


以上はフランスの哲学者 ベルナール・スティグレール
記者 清水克雄 とのインタビューの抜粋です。
ここ迄は梅田氏とスティグレール氏との立場も一致
していて、私も同感なのですが・・・・。

(続く)