日本のポップスをビジネスにした、渡辺晋、美佐さん その.3

渡辺プロダクション創立50周年記念謝恩パーティー話』がまだまだ続きます。(笑)

まあ、それぐらい、日本の音楽シーンに影響を与え続けてきた会社なのですから、当然といえば当然です。

渡辺晋さんは、1987年の冬に亡くなりました。 私はその頃、46歳で、EPICソニーが上手くいきだして、少し生意気になっていた時期です。晋さん(その頃 皆が、彼をそう呼んでいました。)が亡くなる直前に、親しくないのに何度も会うチャンスを作ってくれたことに、今も感謝しています。

そもそもナベプロソニーミュージック(当時CBSソニーとEPICソニー)との仕事の始まりは、晋さんと盛田昭夫さんの親しい関係から始まりました。

その関係のなかから、天地真理キャンディーズ太田裕美と続々とヒットを生む歌手を世に送り出していましたから、両社の関係は極めて良好だったのです。

取引条件もスタート当初から極めてリーズナブルな条件で、(当時弱小だったソニーから見て、リーズナブルということは、飛ぶ鳥を落とす勢いのナベプロから見れば、大優遇した条件だったということぐらい私でも判っていました。(笑)) その頃少し生意気になっていた私は、ナベプロ側から見て、最恵国待遇をしている取引条件を、更に図々しく、EPICソニーに有利な条件にかえようと考えて、身分もわきまえずに、晋さんに交渉を申し込みました。

なかに入って段取りをつけてくれたのは、現スペシャ会長の、中井猛さん(当時、ナベプロ・ノンストップ の責任者)です。

交渉の内容はかいつまんでいうと以下のようなことです。
(契約の話を公開したら、両社から訴えられるかな?  もう時効ですからいいですよね?)

当時 アポロン音楽工業が持っていた、大沢誉志幸と、新人、松岡英明とのテープの販売権を、エピックに移して欲しいということです。

晋さんはきっと『バカヤロー』とおこるだろうという、私の予想に反して、苦笑しながら、CBSソニー(現ソニーミュージック)創立前(1968年頃)のエピソードを話してくれました。

盛田昭夫さんが「今度、レコード会社をつくろうと思っている。ついてはレコード会社のトップに指名した、彼にいろいろ指導してやって欲しい。」といって連れてきた青年が、大賀さんだったんだよ・・・・・・・・・。』


続く