日本のポップスをビジネスにした、渡辺晋、美佐さん その.4

1968年に創業した、私達ソニーミュージック(当時CBSソニー)の社員一期生から五期生ぐらいまでは、毎日あるいは、毎週の主要会議に出席していた、大賀さん(盛田昭夫さんが亡くなった後、ソニーで一番尊敬されている人)に年中怒られていましたから、私達から見ると、大賀さんは、完成された大上司であり、大経営者というイメージです。

ところが、私の目の前に居る、渡辺晋さんは、『大賀という青年を指導したんだよ』と軽くいうのでたまげました。考えてみればそうなんですよね。大賀さんはその頃青年で、音楽ビジネスを知っているわけがなくて、誰かが親切に指導をした筈ですよね。

指導したのが晋さんだったとは・・・。

晋さんは『・・・というわけでナベプロソニーとはずっといい関係で、今迄でやってきたんだから、条件を変更する必要はないと思うよ。君はそう思いませんか?』私は『ハイ、その通りです。』と大きな声で、答えそうだったんです。

でもその当時、ウォークマンがヒットし、大きなステレオセットの売り上げが下がり始め、ラジカセの売り上げが伸びて、レコーデットカセット(録音済みテープ=商品)の売り上げがどんどん上がりはじめた時期でした。

LPとカセットの売上比率が95:5ぐらいだったのが、タイトルによっては、70:30ぐらいになっていたのです。テープの売上を無視できない状況でした。勇気を出して『そうはおっしゃいますが、私としては・・・。』ととりあえずは、おしかえしてみました。が、その日の交渉は、完敗です。

晋さんはこの話はもう終わったという雰囲気で、また明るい夕方なのに、ブランデーを私に勧めてくれました。

それからたいして日を置かずに、第2回目の交渉のセッティングを、中井さんにお願いしました。中井さんは、晋さんの前で、シドロモドロになっている私を見るのが面白いらしくて、なかなかスケジュールの取れない晋さんの日程を無理に調整してくれるんです。(笑)

結局2回目の会談も、なんだかわけわからないうちに終わり、懲りずに第3回目の交渉をしていたら、晋さんは唐突にOKしてくれたんです。

OKしてくれた理由は、未だにわかりません。体調が悪かったので面倒くさくなって、OKしたのかもしれません。でも、私としては、『若いのが一生懸命やってるのだから、OKしてやろう』と晋さんが思ってくれたと思いたいんですよね。

後から、中井さんから聞いたんですけど、真相はこれに近かったらしいんです。

晋さんに『大人』を見ました。一生懸命の若者を応援してあげようというのが、『大人』であるならば、私もいずれ年をとったら『大人』になりたいと思ったんです。


続く