努力はきらいだ

「できのいいやつには かなわない。」を昨日書きました。

今日は「好きなことを 一生けんめいやるやつには かなわない。」です。

副題は「嫌いなことを無理してやっても 長続きしないから したくない。
つまり 努力はきらいだ。」です。

学生時代、クラスのなかで 「頭のいいやつ」と皆に思われているひとの大半は数学が
得意です。
その数学の得意なやつを じっと観察してみると、実に楽しそうに問題を解いていましたね。
私にはさっぱりわからなかったのですが、問題の核になる部分が直ぐに見えて 
それを解決する道筋が見えてしまうのでしょう。
従って ゲームをやっている様に楽しんでいるのです。
ですから楽しみながら 次々と先に進むのです。

これって努力なのでしょうか。

努力ではないですよね。 好きで遊んでいるだけじゃないですか。
 

「努力する」という言葉には 「自分の能力では解決不可能なので 他人の開発した解決法を使って 楽しくはないけれど 無理やりに 解決すること」 という感じがしませんか。
私は「努力する」という意味をそんな風に解釈しているので 努力はなるべくしたくないのです。
 
好きで 遊んでいる気分で どんどん解決法を見つけてしまう人と、借り物の解決法を  いやいや使っている私とでは 競争にならないし、私はハッピーな気分になれません。

ですから 私は 自分が好きで 遊びの気分で寝食を忘れることのできるジャンルはいったい何だろう、自分で解決の道筋を見つけられるのは何だろう、と捜すのです。
 

小学校で「100万個」事件に出会わなかったら 数学の出来るやつは「努力」の結果 数学が出来るようになったのだから 自分も「努力」しなければならないと思い続けただろうと「ぞっ」とします。

幸いに10才の頃に 他人が見ると すごく努力しているように見えるけれど 出来のいいやつの やっていることの本質は「好きで 遊んでいるだけだ」ということを知ってしまったので 「努力は嫌いだ」と確信をもっていいきれるのです。


「大人のいうことを聞いて、いい大学に入って大会社に入れば 君は将来幸せになれるよ。」という風潮が’60年代以降日本をおおいつくしています。


私は「塾」を知らないので 正確なところは知りませんが 「自分の能力では解答がつくれないので 先生が作った解答方法を無理やり覚え 受験に間に合わせる すなわち 努力を強制する装置が塾である。」と勝手に想像しているのですが 違いますか?


可哀想に子供達に「努力」を強いてきました。
その子供達が親になって またその子供達に「努力」を強いています


世界に一つだけの花」には とてもなれないと おもうのですが。