宮沢喜一 その3

宮沢喜一日経新聞私の履歴書』 は今日(4月29日付け) もとても興味深いので引用します。

私は割りと早い段階で、山一証券の経営が危ないという話を聞いていた。
電話のついでに橋本首相に 『山一はどうも非常に問題があるようだが・・・』と尋ねてみると、
橋本首相は 『いやそれは何も聞いていません』 ということだった。
大蔵省も金融危機の実態をよく把握していなかった。
だから橋本首相のところに必要な情報があがっていなかった。


前回迄書いていたのは宮沢喜一が首相在任中で92年の話です。

宮沢政権のあと、細川、羽田、村山とめまぐるしく政権が交代し、

橋本首相となったのは96年の1月ですからこの話は97年頃のことでしょう。


宮沢喜一が首相だった92年に重要な情報 (邦銀の巨額の不良債権問題) は、

大蔵省が知らなかったから首相にあがらなかった。

それから5年経った97年も大蔵省が金融危機の実態を

よく把握していなかったから橋本首相に必要な情報があがらなかった。

民間企業の社長だったら、『バカやロー、何で俺に教えないんだ。え?知らなかった?

よくそんな仕事で給料もらってんな。お前なんかクビだ!二度と俺の前に顔を出すな!』

ですよね。 (笑)

でも大蔵省のしかるべき人達がクビになったという話は

聞いたことないし、多分粛々と官僚特有の年次制度に従って

退任し、知らんぷりして 『天下り』 をしているのでしょう。

情報収集のできなかった当時の現場は、部署を移って

『消費税を上げなければいけない』 といったお気軽なレポートを

与謝野馨谷垣禎一等にあげているんでしょう。 (笑)


私はここで 『日本はこんな事では駄目になる。こんな風に変えなければならない。』

といったことを述べるつもりはありません。

官僚制度なんて昔から 『こんなもん』 だったでしょう。

会社だって成長して組織がでかくなったら 『こんなもん』 でしょう。


ですから私は責任の負える範囲、『30人以下』 にこだわりたいのです。(笑)


それにしても宮沢喜一という人は不思議かつ面白い人ですね。