サントリーサマーフェスティバル 2

昨日の話の続きです。(笑)

サントリー・サマーフェスティバル2006は 8月22日から30日までの間に 8回のコンサートがあります。
どのコンサートも面白そうなのですが、8回 全てを見るわけにもいかず、23日の「音楽の現在」25日の「マーク=アンドレ・タルバヴィ」 27日の「第16回芥川賞選考演奏会」 29日「あるパトロンの肖像」を見ました。
演奏された音楽は どの日のどの曲も とても良かったのですが ここでは それらについては書きません。
それよりも 印象深かったのは 27日の「第16回芥川賞選考演奏会」のあと 本年度の選考が ステージの上で オープンに討議され、決定される迄の過程を見ることができたことでした。

この芥川賞の対象は その年に国の内外で初演された わが国の新進作曲家の作品の中から選ばれることになっています。
今年は60曲が初演され 30曲が予選をとおり そのなかの3曲が この日 新日本フィルハーモニー交響楽団が演奏したわけです。
演奏後の 3名の審査員による討議は壇上でなされ、譜面だけでは もうひとつよくわからないが 演奏してみて確認できたオーケストレーションの技法の優劣と独自性の有無というところが中心で そのあたりの議論は それなりに納得できたのですが 「ロマンテイックなメロディーが表面に出てくるのは危険である。」とか「先生の影響を受けていて 独自性が不足している。」といった議論に 私はビックリしました。

クラシックの「現代音楽」の世界では こんなことにこだわっているんですね。

考えてみると クラシックという言葉は 古典作品とか名作といった意味だから「クラシック(古典)の新曲」といういい方は よく考えて見れば変なものです。
音楽はいったいいつから 新作を「クラシック(古典)の新曲」と「ポップス」に区別するようになったのでしょう。
文学でいえば 純文学の「芥川賞」と ポップの「直木賞」の区別は最近では かなりあいまいになっています。
絵画でも 彫刻の分野でも 昔のような芸術とポップの区別はありません。
なによりも ポップアートという言葉が造られてしまったことに 代表されているように 純芸術作品と商業作品の優劣など誰も気にしなくなっています。
私のような客は「ロマンティックなメロディーのどこが悪いのですか?」とか 「誰かの影響なしに作品を作ることなんか不可能ではないのですか?」と質問したくなります。
作り手側の意識と受け取り側の意識が大きくズレていて このズレを現在は埋めきれていない気がします。

ただ何ごとも“志”をもって作り続ければ、次第に それが一般に理解されるようになるものですが、作り手側が理解してもろうと努力する必要があります。
もしも「大衆はバカだから」といった気持ちがあれば 作り手側の「おもい」は永遠に 一般人に届かないでしょう。
「クラシック(古典)の新曲」を 一週間 楽しんだ感想です。