同潤会江戸川アパート

今週の「週間文春」の小林信彦の連載「本音を申せば」第423回「昭和の達人たち」を呼んでいたら、懐かしい名前がでてきました。 水谷準です。

新青年」という雑誌がなかったら、文筆家としての夢声獅子文六サトウハチローといった<日本のユーモリスト>は存在しなかったと言っていい。
いま、この雑誌を 小説雑誌と思っている人がいるらしいが、大きなマチガイである。 たしかに、小栗虫太郎やエラリー・クィーンの長編ものっているが、ファンの記憶に残るのは、そういう名前ではない。
昭和9年7月号の目次をあけてみよう。(中略)
新青年」の「新青年」たるゆえんは、目次の左はしにまとまっている、なんとも説明しようがない ユーモラスな文章群にある。洋書の紹介から映画紹介(南部圭之助)まで、すべて面白い。今でいえば<コラム>である。それらの人選をした編集長・水谷準のすごさがわかる。

私は牛込区(現新宿区)新小川町にあった 同潤会江戸川アパートで育ちました。
この江戸川アパートは、昨年取り壊され、新しいマンションに建て替えられました。 この建て替えについては、かなりの数の新聞、雑誌、TV番組で報道されましたから、見ていて 覚えている方もいるかもしれません。
この江戸川アパートは、昭和9年に完成しました。 その頃の東京は 貸家が沢山あって、若い人が世帯を持つと、手頃な貸家を借りて、子供が増えるのにあわせて、次第に大きな家に移るというのが普通だったようです。
私の母方の祖父母の家庭は、大家族で 子供が7人もいたし、親戚が何人も居候していたので、ずっと大きな家を借りていたのですが、末娘の私の母が結婚して家を出たので、大きな家の必要がなくなったのを機に 江戸川アパートの一室を借りました。
私の母は 江戸川アパートの実家に出入りするうちに、なかなか良さそうなところだと思ったのでしょう。それまで借りていた小さな家から、実家の両親の住む江戸川アパートに移りました。 そんな理由で 私はこの江戸川アパートで育ったのです。
江戸川アパートの面白い特徴は、アパートの住民専用の大きい風呂場(共同浴場)があったことです。 まあ会員制の銭湯だと思ってください。 江戸川アパートは当時の最先端設備をもった共同住宅でしたが、各戸には、風呂場が付いていなかったというのが昭和9年という時代を現しています。
私が小さい時は 母親と一緒に女湯に入りましたが、小学校に入学する頃に、男子の私は男湯に追いやられました。
この共同浴場はアパート住民の社交場でした。
共同浴場の女湯で交される情報は、とても多かったので、アパートの約150戸 総計400〜500名の全ての人の動静は皆がおおよそ知っていました。
今の都市住民には考えられない 濃密な地域コミュニケーションが成立していたのです。
でも少数ですが、この共同浴場に姿を見せない人もいました。
水谷準もそうした共同浴場に姿を見せない一人でした。
ですから 彼の情報は子供だった私は 持っていなかったのです。
母親から得ていた情報は、「探偵小説の翻訳家」ということだけでした。 大人になってゴルフをはじめた時、人にすすめられて購入したゴルフの入門書 ベン・ホーガン著「モダンゴルフ」 の訳者を見たら水谷準だったので、ちょっと不思議な思いをしたのを思い出します。
で、小林信彦の文書によれば 水谷準は 雑誌「新青年」の大編集長だったのですね。
「それが どうした?」と突っ込まれそうです。(笑)
実はこの話はこれだけなんです。
私が 小林信彦の文章を好んでいて、その小林信彦の「昭和の達人たち」のなかに、私が小さい時、近所に住んでいた 余り姿を見かけなかった「おじさん」が 達人の一人として登場したので、うれしくなったという それだけのはなしです。(笑)