同潤会江戸川アパート 2

同潤会江戸川アパート話し」を続けます。
昨日も書きましたが、江戸川アパートには 約400人から500人ぐらいの住民が暮らしていました。 江戸川アパートは昭和9年に完成したので その前後に結婚し、世帯を持つという人達は、明治時代生まれということになります。 私の父は明治34年(1901年)生まれですから、昭和9年(1934年)の江戸川アパートの世帯主は、皆さんおよそ35才前後だったとおもわれます。
江戸川アパートの住民は、昭和の9年頃としては 比較的晩婚が多かったのでしょう。
理由は 大学の先生、医者、編集者、文学者、官吏、技術者といった職業でしたから、当時としては高学歴だったのが、その理由かもしれません。
そして この年齢構成だと、昭和16年(1941年)太平洋戦争勃発の時は 40才を越えていて、兵隊として徴兵されるには、年を取りすぎていましたから、江戸川アパートの住民からは 私の知っている範囲では戦死者は出ていないと思います。
昭和20年の8月15日、江戸川アパートのまわりは 完全に焼け野原でしたが、鉄筋コンクリート造りの建物は 焼失せずに残っていました。 疎開先から住民は 次々と戻ってきて、戦前と同じような顔ぶれで 戦後の生活を再スタートすることが出来たのです。 昭和20年の8月15日に 東京に住む家があったということは とても恵まれていました。
その頃、江戸川アパートのまわりは、焼け野原ですから 医院、病院なんかありません。
私の父は医者ですが、大学病院勤務していたので、自宅開業をしていたわけではありません。 それでも 江戸川アパートの住民が 夜 突然飛び込んでくることがしばしばありました。
「先生、うちの子が突然高熱を出しました。 診てください!」
父は その日の生活状態を質問し、食事の内容を質問しながら、丁寧に診察した後、「まあ、心配する程のことはないでしょう。」とニッコリ笑って「念の為に、薬を出しましょう。」といって、大きな「茶色のビン」を隣りの部屋で待機している母と私のところにもってきます。(続く)