牧野富太郎博士

高知市で友人の友人が開いた「人形展」の会場で多くの人を紹介されたのですが、そのなかに「高知県立牧野植物園」の職員がいて、「是非見てください。」と強くすすめられたので、行ってみました。
牧野植物園は 高知県が生んだ「日本の植物学の父」牧野富太郎博士(1862〜1957年)の業績を顕彰するために、高知市五台山に1958年に開園された まことに充実した立派な植物園です。

高知市の五台山というのは中心部から車で15分ぐらいのところにありますが、かなりの高さの独立した山で、植物園として利用していますから、園内各所から高知市全体を見下ろすことのできる展望台でもあります。
本来の植物園としての内容はもちろん立派ですが、私はこの植物園のなかの展示館にあった「牧野富太郎博士」の一生を説明する「展示コーナー」で足がとまってしまいました。
牧野富太郎博士は 私の小学生、中学生の頃 すでに高齢で新聞に度々取り上げられていましたから 何となく知ってはいましたが、ここの展示を見てはじめて納得しました。

牧野富太郎博士は小学校も途中で退学してしまった人で、他の教科には全く興味をもたない大変片寄った人物でありながら、植物分類学だけには異常な集中力と才能があって、一生をとおしてただ一点に努力を集中して偉業を成し遂げたにもかかわらず東大等の権威主義の下で、不当に業績を評価されなかった気の毒な学者であったという勝手な人物像を私は描いていたのです。

ところが高知県立牧野植物園の牧野富太郎の展示物をみると、牧野富太郎は幼少の頃に極めて高度な教育を受け、それをマスターしていたので、その後入学した小学校の授業のレベルが余りに低かったので、自然退学してしまったということを知りました。
明治維新前後に西洋学問を志した人は、必要な書籍を自分で購入できなければ その書籍をまるごと筆写してしまうという、いまでは考えられない努力をしていたのは 私も知っていましたが 牧野富太郎が植物学の書籍を絵ごと筆写したノートをガラスのケースごしに見て、ただただ頭の下がる思いをしました。どちらがオリジナルで、どちらが筆写したものか区別がつかないほどの完成度なのです。 それ程精密な筆写でした。
その展示のもう少し手前にあったのは 彼が必要と考えて抜き書きした漢文の文章あるいは漢詩を筆写したノートなのですが、それもまた、木版印刷の伝統的な書籍としか見えない程キチンと筆写してあります。
更に驚くべきことに、十代なかばにして「学問を志すにあたっての決意の10項目(?)」という自分自身に課した憲法のようなものを作り上げ、生涯その憲法を守り実践したのです。

牧野富太郎博士という名に反応するのは私の年代が最後かもしれません。
しかしながら最近、 「教育改革」の議論が盛んにされていますが、明治維新前後に自分の意志で、学問を志した人達と 現在の 私達の間に 余りの「乖離」があるのを知って 反省してもどうにもならないのですが 考え込んでしまいます。