学問のすすめ 3

福沢諭吉の「学問のすすめ」について今日も記します。
前にも書きましたが、この本は明治5年に初編(第一章)が出版され、二編(二章)以降、次々と出版されて十七編(十七章)の最終章が明治9年に出版され、それらを全てまとめて、明治13年に一冊にまとめたものがあらためて出版されたのです。
この本に関する感想は数多くありますが、なかでも 私がかねてから「ふしぎだなあ」と疑問に思っていた答えが、この本のなかにありましたから、私は 大変感動しました。
私の疑問というのは「日本の官僚が長期間 権力を握り続けている理由を知りたい。」ということだったのです。
明治5年というのは、士農工商という身分制度が確固としてあった専制政治の時代が終わって、まだ4年しかたっていません。 明治維新以来、日本の政治は大きく変わり、国外的には 国際法に基づいて外国と交流し、国内的には 国民に自由独立の方針を示しました。 とはいうものの、国際情勢は、欧米各国が 中国を植民地化しているように、日本が植民地とされないで 独立国として存続できるかどうか という実に危うい情況という時代です。
福沢諭吉は 我が国の独立が保てるかが疑問だから、何とかしなければ とアセッていました。
福沢諭吉は 政府と国民が互いに刺激をし合い、助け合って国全体の独立を維持しなければならないと考えました。
それ迄の日本の政治は 身分制度による専制政治でしたから、国民が政府と協力するという考え方は全くありません。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という今では、当たり前の意識を当時の人は勿論持っていたわけではありませんから、政府はそういう考え方を知っている人を まず政府に入れて官僚とし、国民を指導させようと考えました。 欧米の文明を知っている人は、当時 極めて少数で、洋学者しかいませんから、洋学者は みんな政府の官僚となったわけです。徳川時代迄の学者は 国学者、漢学者のことを意味し、国学者、漢学者は 皆 徳川政権 あるいは地方大名に仕えていましたから、時代がかわっても 学者である洋学者は役人になることを志しました。
国民は国民で 長年の習慣、風潮、気風で官を慕い、官を頼みにし、官を恐れ、官にへつらい、ほんの少しの独立しようとするまごころも表面に出す者がない ということになっていると福沢諭吉は なげいています。
福沢諭吉は「日本には、政府だけあって、まだ国民と呼べる者がいない」とまで言い切っています。
この状況を打破するには、国民に「学問をすすめなければならない」ということになります。 欧米文明を知る者が政府に雇われた洋学者だけではいけない。 国民 皆が 欧米文明をしらなければならないから、それを自分は政府に入らずに、民間でやるのだ と主張しているわけです。
日本の官僚が強いわけがようやく解明できました。
明治政府を成立させた人材が洋学者で 人材が民間にまわらなかったことにあったのだとわかりました。
福沢諭吉は、学者といっても国学者、漢学者を何の役にもたたないと切り捨てています。 しかし 欧米文明を知っている洋学者が徳川政権の時の国学者、漢学者と全く同じに 時の政府に雇われて立身出世を志していることを責めることはできない。 ただ彼等は それ迄の価値観から抜け出さずに世間の風潮に流されて、自分の考えを持てていないのだといっています。
明治5年(1872年)から134年たちました。 
今の日本は国民の欧米文明を学ぶことにかけて、官民に差があるわけでもなく、あえていえば民のレベルはあらゆる面で官を上回ってさえいます。 そんな状況なのに、国民が官を頼みにし、官にへつらうというのは 福沢諭吉のいうように単に長年の習慣 風潮 気風 でしかないでしょう。
近年「官から民へ」という議論が強く主張されています。
国の独立の問題、教育改革などなど 明治5年に福沢諭吉の提起した問題は 解決されないまま、今日まで来ています。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という福沢諭吉の考え方をあらわしている「学問のすすめ」は「国家の品格」や「美しい国日本」を読む前に、ぜひ一読をオススメします。
現代語訳は 実によみやすく、わかりやすいですよ!