音楽市場

金曜日に沖縄に戻りました。 
沖縄市が2007年7月にオープンする「音楽市場」と名付けられる大型ライブハウスの運営を民間業者に任せるという方針を打ち出して、それにかかわる委員会の委員を断続的に この3年程引き受けてました。
いよいよ最終段階に来ているので、沖縄市で行われる会合に出席する為にかなりヒンパンに沖縄に通っています。
那覇市というより「コザ」といった方が内地の人にはイメージがわくとおもいます。 沖縄市はロックの町です。
沖縄の音楽がとてもハヤッていますが、その大部分のミュージシャンはここ沖縄市出身です。沖縄市経済は米軍嘉天納基地に大きく依存していました。 基地を必要とするか否かという問題に私は触れませんが、近年米軍人の駐留人口の減少が沖縄市経済を下降させているのは事実で、それに代わる産業を興さねばと、市当局も地元民も皆さん考えて、沖縄市を音楽の町にしようというプランが立ち上がり、そのプランの中心がこの「音楽市場」です。
日本の戦後のポピュラー音楽が米国占領軍とともに盛んになったのは、知られています。 その占領軍の為のエンタテイメントの音楽を演奏することで、数多くのミュージシャンが育ちました。
1945年から1951年のサンフランシスコ講和条約迄の6年間というのは、ジャズとカントリーがアメリカ軍に提供する音楽の中心でしたから、本土のミュージシャンもジャズとカントリーミュージシャンになりました。
サンフランシスコ講和条約のあと、本土に沢山あった占領軍基地は次々に閉鎖され、多くのジャズやカントリーを演奏していたミュージシャンは職を失ったのですが、そのなかでビジネスセンスのある人達が、日本人の為の音楽ビジネスを始めて、今の芸能界の基礎を作ったことは前にもこのブログに書いたことがあります。
サンフランシスコ講和条約によって、日本は米軍の占領状態から脱して米軍の駐留は法的には「安保条約」によるものとなり、本土の米軍は大幅に減ったのですが、サンプランシスコ講和条約の前提条件として沖縄だけは占領状態を続けるということになって、1972年迄沖縄の米軍占領は続き 沢山の米兵が居ました。 アメリカ音楽シーンはジャズ、カントリーからロックに流れが移り、沖縄でも駐在米軍の為のエンタテイメントとして基地の内外でロックが演奏されました。
ですから沖縄は日本のロックの先進地域なのです。 そしてその中心が「コザ・沖縄市」なのです。 その伝統は断えることなく 今に続いていますから 当時のロックバンドの流れをくむ沖縄のミュージシャンは「コザ沖縄市」出身者が多いのは当然のことでもあるわけです。