ゆっくり動く時代 6

私は2年も浪人しましたから、1962年に大学に入学にしました。 「団塊の世代」より チョット前に入学したわけです。
団塊の世代」と6才違いで、学年ではたった4年しか違わないのですが、「大学」に対してのイメージが全く異なっています。
私達の世代の「大学」のイメージは「象牙の塔」です。 若い人には この言葉は死語でしょうね。 辞書を引いてください。(笑)
こんな言葉がまだ生きていた時代ですから、大学の講義の内容もきわめて伝統的で、保守的なものでした。
そして 大学生全般も それを「変だ」とは思っていませんでした。
大学は まだ日本の各界をリードする指導者層を作る為の 教育機関だと位置付けられていました。
そういう教育機関である大学は「どうあるべきか」ということは自明で、そのモデルはヨーロッパ 特にイギリスのケンブリッジ大学やオックスフォード大学等に範を求めていたのだろうと思います。 そこの教育のカリキュラムは広い意味の「教養」だったらしいのです。
「だったらしい」というのは 私はこの両大学に留学したわけでもなくて、経験者の書いた「本」を読んで そう思っているのですから、本当のところは良くわかりませんが。
脳科学者の茂木健一郎さんが自分の留学していたケンブリッジ大学での見聞を文章にしたなかで 「極めて高度で緊張感のある会話」つまり 「圧倒的な知の卓越」を見せる「教養」の本来の姿の紹介を読んだ記憶があります。
私のようないいかげんな学生には そんな「高度な教養」は 身に付く筈もないのですが、「大学の建前」としては「教養」を学ばせようとしていた筈です。
そして私達の世代は 「そんなもんだろう。」と素直に考えていました。
「教養」 という言葉は何ともわかりにくいものです。 辞書を引いても もうひとつ何だか良くわかりません。
しかし 劇作家、批評家の山崎正和は 「教養」の反対語 を考えるとハッキリするといっています。
教養の反対語は 「無知蒙昧」(辞書新明解で調べるのでしたら、蒙昧(モウマイ)で引いてください。念の為)
もうひとつの反対語は 「技術的な知識」と山崎正和は言っています。
で、山崎正和は 「教養というものは 本質的に保守的なものでなければならない。 つまり 古典を知ることである。」といっています。
これで お判りいただけたと思うのですが、「大学」の有様と「団塊の世代」のもっていた「大学のイメージ」のギャップが とても大きかったので 「大学紛争」に突入です。(笑)
団塊の世代」は 「教養」の反対に位置する 「技術的な知識」 「専門的な知識」を学びたかったのです。(続く)