江戸時代文化のはなし 1

4月16日を最後に しばらくグログを中断してしまいました。
「音楽の歴史は音量増大の歴史だ。」とか 
「音楽の変化や進歩は技術の進歩と共にあったのだ。」とか
「音楽とコンピューターが結びつぃてから もう30年もたったのに、次の技術がでてこないから新しい音楽がでてこないのだ。」とか 
「ミュージシャンは『いい音』を目指しているけれど、リスナーは『いい音』よりも手軽に聴けることを求めている。」とか
「今の音楽は長くてむずかしくなっている。」から「短くてわかりやすい音楽を作ったらどうだろうか?」とか、
かなり乱暴なことを書き続けました。
まあ こんなことを書いているのは、何となく先が明確に見えていないことが理由なのです。

少し前に 団塊の世代の 「アメリカ大好き」 について、かなり長く書きました。 
もちろん 「団塊の世代」 に 「アメリカ大好き」は 濃厚にその影響が出ているのですが、それ以前に生まれた私達の世代も少なからず影響を受けています。
明治維新を成し遂げた人達が 「西洋文明、西洋文化大好き」 であったことは 「団塊の世代」 の 「アメリカ大好き」と変わりはありません。
19世紀の後半から20世紀の間 私達日本人には常に超えなければならない「目標」がありました。
その目標は 西洋やアメリカが既にクリアしているのだから、必ず我々も到達できることがわかっていたのですから、努力にも熱が入ったわけです。
西洋の近代という時代はキリスト教という唯一絶対の世界像が、異文化との接触を通して壊れてきたところがスタートです。
つまり 今まで信じてきたことは 唯一ではない、ということがわかってしまったところから始まりました。
「それじゃどうするのか?」といったときに 「理性によって共有できる世界像を獲得する。」という方法を近代西洋はとったわけです。といって理性や合理的な思考が ある日 突然生まれるわけじゃありません。 魔女裁判などという理性とは まるで反対のことが ポーランドで1793年に行われていますから、 この理性や合理的な思考というものも まだ たった200年になるかならないかの歴史しかありません。 しかし理性や合理的な思考で全ては説明できるという考え方が 19世紀から20世紀に西洋、アメリカ、日本を席巻します。 つまり進歩を前提とした正解である理論をマスターすれば すべてはうまくいくという思い込みです。
私も20世紀の後半に生きてきましたから、「正解」を求めて色んな理論を勉強しちゃいました。(笑)
21世紀に入って ふとまわりを見渡すと、「正解」に導いてくれそうな理論がありません。
1868年の 明治維新から 約140年たちました。 
あらゆる分野で 日本は当初は 西洋文明を手本とし、1945年からは主にアメリカをモデルにしてきました。
ここにきて 次の目標というか正解が何なのかがわからなくなっています。 私だけかもしれませんが。
そんなわけで「ゆっくり動く時代」とか「温故知新」などといって 「1950年代、1960年代の音楽の研究」と「江戸時代文化の研究」をはじめたのです。(笑)