ゆっくり動く時代 7

6回にわたって アメリカ制作のホームドラマの「団塊の世代」に与えた影響と その結果「大学紛争」を引き起こし、
更には「教養」に対する反乱というか 無視したという彼等の風潮を書き続けています。
このブログを書いていると、時々読んでくれた人が 感想をいってくれます。
団塊の世代」より 5〜6才若い人が「自分達の世代はTVを見始めたのが、小学校前からだったし、小学校6年生になったころには、社会がもっと豊かになっていたから、団塊の世代のような『アメリカ大好き!』にはならなかった。」という証言を得ました。
こんな話しをしていたときの時の彼の反応は「団塊の世代」に対し あからさまではないけれど やや シニカルな感じです。
「ウーン!」私の世代を「団塊の世代」が批判し、その「団塊の世代」を彼等より若い世代が 批判的に見るという図式ですから、いつの世も 若者から年長者は批判されるという、ごくあたりまえのことが 繰り返されています。(笑)
団塊の世代」が何となく 世の中が見えはじめた 小学校4年5年6年頃に見た「アメリカ制作のホームドラマ」を見た衝撃というのは とても大きかったのだろうけれど、同じ時期に同じ番組を見た 小学校低学年の子供は ただボンヤリ見ていたから、それ程の影響を受けなかったらしいし、年上の高校生以上は それを「バーチャルなドラマなんだから」と やや冷静に見ていたのだろうから、小学校低学年生と同じように「団塊の世代」が感じたほどの衝撃を受けなかったのだと思います。
ひとつの事象が出現したときに それをどういう風な感情や論理で 受け取るかは、それぞれによって違いますから、世代によっても異なるのは 当たり前のことではあります。
ただ私は アメリカ制作のホームドラマが「段階の世代」全体に与えた影響は、他と比べようもなく 広範囲で強かったと思っています。つづく

ゆっくり動く時代 6

私は2年も浪人しましたから、1962年に大学に入学にしました。 「団塊の世代」より チョット前に入学したわけです。
団塊の世代」と6才違いで、学年ではたった4年しか違わないのですが、「大学」に対してのイメージが全く異なっています。
私達の世代の「大学」のイメージは「象牙の塔」です。 若い人には この言葉は死語でしょうね。 辞書を引いてください。(笑)
こんな言葉がまだ生きていた時代ですから、大学の講義の内容もきわめて伝統的で、保守的なものでした。
そして 大学生全般も それを「変だ」とは思っていませんでした。
大学は まだ日本の各界をリードする指導者層を作る為の 教育機関だと位置付けられていました。
そういう教育機関である大学は「どうあるべきか」ということは自明で、そのモデルはヨーロッパ 特にイギリスのケンブリッジ大学やオックスフォード大学等に範を求めていたのだろうと思います。 そこの教育のカリキュラムは広い意味の「教養」だったらしいのです。
「だったらしい」というのは 私はこの両大学に留学したわけでもなくて、経験者の書いた「本」を読んで そう思っているのですから、本当のところは良くわかりませんが。
脳科学者の茂木健一郎さんが自分の留学していたケンブリッジ大学での見聞を文章にしたなかで 「極めて高度で緊張感のある会話」つまり 「圧倒的な知の卓越」を見せる「教養」の本来の姿の紹介を読んだ記憶があります。
私のようないいかげんな学生には そんな「高度な教養」は 身に付く筈もないのですが、「大学の建前」としては「教養」を学ばせようとしていた筈です。
そして私達の世代は 「そんなもんだろう。」と素直に考えていました。
「教養」 という言葉は何ともわかりにくいものです。 辞書を引いても もうひとつ何だか良くわかりません。
しかし 劇作家、批評家の山崎正和は 「教養」の反対語 を考えるとハッキリするといっています。
教養の反対語は 「無知蒙昧」(辞書新明解で調べるのでしたら、蒙昧(モウマイ)で引いてください。念の為)
もうひとつの反対語は 「技術的な知識」と山崎正和は言っています。
で、山崎正和は 「教養というものは 本質的に保守的なものでなければならない。 つまり 古典を知ることである。」といっています。
これで お判りいただけたと思うのですが、「大学」の有様と「団塊の世代」のもっていた「大学のイメージ」のギャップが とても大きかったので 「大学紛争」に突入です。(笑)
団塊の世代」は 「教養」の反対に位置する 「技術的な知識」 「専門的な知識」を学びたかったのです。(続く)

ゆっくり動く時代 5

「60年代末の大学紛争は何だったのか?」 は 私の片寄った立場からみると、理由は簡単で、いろいろ要因が複合していたのでしょうが、大学生になった「団塊の世代」が 「何で昔の あるいは 過去のことをまなばなければならないのか?」 を理解できなかっただけ、だったと思うのです。(笑)
団塊の世代」は 激しい受験戦争を耐えて、大学に入学したら 役に立つことを教えてもらえると思っていたのでしょう。
彼等にとって「役に立つ」という意味は「新しい事」「最新の知識」という意味だったと思います。
彼等の目指すモデルはTV番組で見てあこがれている 日本よりはるかに物質的に豊かなアメリカですから アメリカに追いつくための方法を教えてもらいたかったのでしょう。
団塊の世代」は世の中がどんどん変わっていることを実感しています。
彼等が子供の頃と 大学生になった時期とを比べてみても、明らかに日本は豊かになっていました。
そんな状況は アメリカの最新の技術や文化を急速に採り入れたからでと彼等は思ってました。
今よりも さらに豊かになるために、最新の知識や技術を学びたいと思っていたに違いありません。
TVを見て育った彼等は 「最新の知識は 大人より自分達子供の方が持っている。大人より自分達の方が秀でている。 自分達の方が上だ。」 と密かに考えていた筈ですから、大学で最新知識を手に入れて、社会に出ていき 旧い、ダサイ 大人を蹴散らそうと自信満々だったに違いありません。(笑)
ところが大学の講義を受けてみて ガクゼンとします。 授業の内容は「最新」どころかメチャクチャ「古い事」ばかりです。
どの教授の教科書も10年とか15年同じで、改訂もされていないことを知って、不満が爆発します。 やってられない!
そして 大学紛争に突入!です。
私と 「団塊の世代」とは6才しか差がありません。 その上 私は2年も浪人しましたから、学年としては たった4年違いですが、私達の世代は子供の時に、アメリカ制作のホームドラマを見ていませんから、「団塊の世代」のように「アメリカ大好き!」となってはいません。(続く)

ゆっくり動く時代 4

団塊の世代」が小学生中学生のときに視た アメリカ制作のホームドラマを 彼等は「理想的な家庭像」として とらえてしまったのでしょう。
アメリカ制作のホームドラマが 絵空事のドラマ(バーチャル)に過ぎないのですが、まだ子供だった彼等は「リアル」だと受け取ってしまいました。
小さい子供が TV画面から吸収する情報を「バーチャル」と「リアル」あるいは「真実」と「デマ」とを区別するには かなり経験を積まなければなりません。
子供には時間がたっぷりありますから、毎日TV番組を見続けました。 そして雑多な知識と情報を「バーチャル」と「リアル」の区別をつけないままに吸収しました。
TVのなかった時代に育った子供(私のことです。)の知っていた世界は、自分が遊びまわっていた近所とそこで起こったことや体験したことしか なかったのですから、とても狭いものでした。
それが TV番組を毎日長時間見続けた団塊世代以降の子供達は 自分が体験したこともないことを沢山知ってしまうし、行ったことのない世界を知ってしまいます。
団塊の世代以降のTVを見続けた子供達は TV以前の子供達(私の世代以前)とは 大きく違ってしまったのです。
団塊の世代」以降の子供達は 何となく自分達は大人と同じか、もしかしたら自分達子供の方が 知識情報を沢山もっているのだから、大人より優れている とか 大人より上だ と考えるようになったのではないかと思うのです。
団塊の世代」がTVを見始めてから約10年の間に 日本は「東京オリンピック」をはさんで、好景気と 景気の後退を繰り返しながらも 各家庭は 家電製品を続々と購入し、一部の家庭はマイカーを所有するまでになりました。
団塊の世代」は 彼等が理想とするアメリカ制作のホームドラマに写された「何とも甘ったるいファミリー像」に近い世界が実現しそうな実感をもったのだと思います。
ですから「団塊の世代以降」の子供達は 彼等が理想とする方向 具体的にいうと TVで見ているバーチャルなアメリカのような社会に 日本の社会も進歩し、変化していると考えていた節があります。
団塊の世代」は そんな気分をもったまま 大学に入学しました。
大学は「団塊の世代」から見たら、とんでもない古い体制が温存されていましたから、大いに失望し「大学紛争」に突入します。
60年代末から70年代初頭にかけての「大学紛争」は何だったのかという問題は まだキチンと総括されてはいません。
いったい あの「大学紛争」は何だったのだろう?(笑)つづく

ゆっくり動く時代 3

1945年以降 アメリカ占領軍、1951年以降 アメリカ駐留軍の存在が日本の政治経済文化等あらゆる分野に影響を与えました。
団塊の世代がまだ「物心」のつく前に 東西冷戦が激しくなって 朝鮮動乱が起こり(1951年)、 日本はアジアに於ける 西側の最前線に位置付けられ、朝鮮動乱の戦場で必要とする物資の生産を担ったおかげで いわゆる「特需」が出現し、敗戦後の経済復興を大いに助けました。
そして 1947年生まれの団塊の世代の先頭が12才になった時(1952年) TV受像機が全国に普及し、そのTV番組の主要なプログラムのひとつに アメリカ制作のホームドラマがあったことは、団塊の世代の考え方に極めて大きな影響を与えました。
アメリカ制作のホームドラマに写しだされた アメリカの豊かな家庭、例えば 電気洗濯機や電気冷蔵庫とそのなかに収納されている ミルク、コーラ、ハム、 広い居間にあるTV受像機とオーディオセットとアメリカンポップス、 高校生が車を運転して 外出した先のダンスパーティー、 その高校生が着ているのは 学生服ではなくて カジュアルなT−シャツ、Gパン。
これらの描写は まだ それ程豊かでなかった日本の団塊世代の少年少女に「あんな楽しそうな豊かな生活をしたい。」という目標を しらずしらずのうちに 与えました。
アメリカ制作のホームドラマにでてくる父親は どんな仕事をしているのかわからないけれど そこそこの収入があるようにみえ、母親と仲良くて 何かというと「チュッ」とキスをし、子供達の行動にやたら理解を示しました。
一方、日本では そのアメリカ制作のホームドラマを視ている団塊世代以降の少年少女の両親は 家族を食べさせようと血相を変えて 仕事をしていました。
団塊世代の両親は 戦争経験者です。 日本がそこそこの国際的な地位を占めていた時も知っている一方で、その日本が掲げた国策によって 戦地で戦ったり、国内で空襲にあったりして、生活の基盤を全て失って 敗戦に直面した経験をもっています。
戦争前の価値観で育っていますから、敗戦後 急に民主主義だと言われても 素直に対応はできません。
それよりも何よりも 家族を食べさせようと必死に働いていましたから、子供達が アメリカ制作のホームドラマを視ながら、自分達両親と全く異なる価値観を 体内・脳内 に育てているなんて、気付いてもいませんでした。
戦争経験者の両親は 子供達に日本の伝統的な考え方を折りにふれて語ったり、そんな考え方で説教したりしていたはずです。
しかし それを聞かされていた団塊の世代だった子供達は、少しは両親の言う事を理解したかもしれませんが 「自分の親は古いよな! アメリカの家庭の親がうらやましいな!」と思っていた筈です。つづく

ゆっくり動く時代2

「画期的な新しい技術なんてものは そろそろ出尽くしたんじゃないだろうか?」とか
「これからはあんまり面白くない時代が続きそうだ。」とか
あまり前向きじゃない発言をしています。
こんな発言をしているので、皆さんからの大反論を浴びるだろうと内心ビクビクしていたんですが
皆さんが冷静に対応してくださったり、あるいは無視して下さっているので(笑)「ホット」しています。
しかし 科学技術は 日々進化しているわけですから 私の発言は いささか不適切だと反省しています。
「画期的な新規商品なんてものは そろそろ出尽くしたんじゃないだろうか」と言いなおします。(笑)
この「前向きじゃない」考え方に至った経緯は これ迄も何度も書いているので、 ここでは改めて書きません。

「日々変化し、進化しなければならない。」という考え方に 私達は取り付かれています。
もちろん 私自身もこの時代に生きていますから、「世の中は日々変化し、進化する」のだから「自分も変化し、進化しなければならない」と疑いもせずに 今迄生きてきました。
私達の「考え方」や「ライフスタイル」が多くの技術の進化によって、常に変化してきたことは 間違いありません。
しかし 一方で「新しい考え方」や「新しいライフスタイル」を急激にとりいれるかわりに
それ迄あった「価値のある古いもの」の多くを捨ててきたのも事実です。
「古いものを捨てるのは しょうがないよね! 新しい方がカッコイイんだから!」と考えてきたのも 大きな理由の一つです。
それ迄あった価値観や文化を壊し、多くを捨ててしまったのは、なにも今の時代にかぎったことではありません。
いつの時代にも同じことがおこりました。
明治維新の時も 同じようだったことは 前にこのブログで紹介した 福沢諭吉の「学問のすすめ」のなかで、あきらかです。
こういったことが起こるのは「時代が要求」しているとみんなが考えたからです。
明治維新(1868年)から 約150年間で、私達日本人は欧米が約300年かけてやってきたことをしてきました。
欧米諸国は 1700年頃から産業革命がはじまり、市民革命を経験し、世界中に植民地を次々に拡大して
明治維新の直前、もっとも遠隔地である中国を植民地化したあと、最後に残されていた 日本にやってきました。
明治維新後 日本はとりあえず欧米に追いつくために「古いものを捨て、新しいものを取り入れる」ことに全力を尽くしました。
そうしなければ、日本は「植民地」にされてしまうから そうするしか「しょうがない」という状況だったのです。
1904−1905年の日露戦争に 辛くも勝ったのですが、日本は増長してしまい、結局 1945年に敗戦しました。
明治維新時に「植民地」にされてしまうことは 免れましたが、1945年から6年間アメリカに占領されました。
1951年にサンフランシスコ講和会議によって、米国の「占領時代」は終わったのですが、同時に日米安全保障条約が成立して 米軍は引き続き駐留し、現在に至っています。
そんなことから 1945年以降 日本はアメリカの影響を 政治 経済だけではなくて、文化に至るまで 深く受けています。  (続く)

ゆっくり動く時代

人間は昔のことをすぐ忘れてしまいます。 私も例外ではありません。
このブログを書きながら 子供時代からチョット前までのことを 無理やり思いだしてみると
いろんなことが 突然姿をあらわしたり、その頃全然関係ないと思っていたことが 結びついたりして、
「あの事の意味」は 「こういうことだったのだ。」 などと 今頃わかったり、納得したりしています。(笑)

一方で 私は 「最近の音楽は 面白くネーナー!」 と感じているので、どうしてなのかを考えています。
結論は 「新しい楽器や技術 が登場しないと 新しい音楽は出なくなる。」 という 平凡な答えを得ただけです。(笑)
でも「このこと」は なにも「音楽の世界」に限ったことではないのではないか? と考えはひろがります
自分は そのように考えているが、 他の人は どのように考えているのだろうか? と気になって
政府がまとめている 「イノベーション25」 をみてみると、 権威ある委員の皆さんはやたら前向きに
議論をなさっているけれど、「まぁ、どうってことはない!」ということがわかりました。

つまり 「画期的な技術革新 は 生まれそうにない」。 です。
もちろん いまある技術は もっと 洗練され 高度になることは 間違いありませんが 進化する技術から
私たちが受けるインパクトは もうそれほど 大きなものではないと おもうのです。

昨日書いたように 1960年代にTV, 新幹線, 高速道路, といったインフラがつくられ、
そのインフラの上に 新しい技術を使った製品やサービスやソフトが続々と開発されました。
今振り返ってみると TV、 新幹線、 高速道路、 といった技術は アナログ技術の最先端でした。
70年代は この最先端技術が 高度に 発展した時期だったのです。
このころ出てきた商品のすべてが 私たちに わくわくするような 興奮をあたえてくれた記憶が のこっています。

ところが  そんな時代は長くは続かず 急激に 技術は デジタルの時代に 移行しました。
80年代 初めに 音楽業界も デジタル技術に 直面しました。
 YMOから始まった コンピューター音楽 や CDという デジタル技術 が 音楽世界にも入ってきました。

 その当時 音楽という分野だけでなく これほど広範囲の分野に  アナログから デジタルに あらゆるものが 切り替わるなどとは 想像もしていませんでした。 
その上に デジタルでなければ 実現しない 新しい商品も つぎつぎに 登場しました。
そんな数多くの 新しい物を 受け入れるのに とても忙しい 27年 だったような 気がします。

今、私達は 「世の中の変化が激しすぎる。」と悲鳴をあげています。
こんな状況は ここ48年のことです。(12歳の小学生がTVで皇太子の祝賀パレードを見はじめた年から起算しています。)
悲鳴をあげているのは、世の中の変化がゆっくりしていた時代を知っている 私より上の世代だけ かもしれません。
「団魂の世代」 以降の人達は 今のような急激な変化が 常態である時代しか しりませんから 平気なのかもしれません。 いや、むしろ 楽しんでいるのかもしれません。

でも 私の予想は これからは いままでのような急激な変化をしなくなるだろう というものです。
で、そうなると 若い人達は 世の中の変化のスピードが ゆっくり になったら どのように対処するのだろうか? というのが 私のイジワルな興味なのです。(笑)

ゆっくり動く時代は どんな 世界なのだろう と ウダウダ 考えてみようと思っています。